幕 張 の 御 祭 り・・・・

「子守神社」正面 『 幕張磯出大祭 』

 上の写真は、幕張と幕張本郷の中間に位置します、

地元では有名な「子守(こまもり)神社」です。この神社の例祭は、

毎年9月15日を初日に、計3日間ほど行われています。

小さな御祭りですが、時々、地元出身有名人の若者が

お忍び参加することもあるとのうわさで、出店も並ぶ幕張旧道は、

たいへんなにぎわいです。

 また、7年に1度、9月の例祭のほかに、「下総三山の七年祭り」という

祭事の一行事が催されます。幕張で催されるのは「幕張の磯出大祭」。

習志野市・船橋市・八千代市に渉る広い範囲の地域神社も参加して、

4社のおみこしが、幕張の磯であった場所に一同に会し、祭式を行います。

2009年は、「七年祭り」の年にあたります。その起源を簡単にご紹介します。


磯出大祭ポスター
磯出式神事 「子守(こまもり)神社」周辺  

 桓武天皇の流れを汲む下総国の豪族

「千葉介平常胤」が、1180年(治承4年)

源 頼朝が挙兵の折、戦に合流、功臣として、

上総・下総を含む広大な領地を恩賜しました。

千葉常胤の四男胤信が、大須賀荘本郷を

配領し屋形を構えたのが、この町です。


 
  15世紀中ごろになり、千葉氏第14代満胤の次男「康胤」が、父から譲り受けたこの地に塞城を修営、

常時居城として治めるようになり、この郷も隆盛をみせるようになりました。「康胤」は、郷名から「馬加陸奥守平康胤

(まくわりむつのかみやすたね)」と称し、馬加城主として領民から崇拝された、名領主であったと伝えられています。

馬加(まくわり)が、現在、幕張と呼称されている事は、音(おん)でお気づきでしょう。

 その城主「康胤公」の奥方が懐妊された折、その後11ヶ月待つも臨産の気配がなく、案じた末、

現在の「子守神社」・「二宮神社」(船橋市三山)の神主に加持祈祷を命じ、功が奏して神託を授かり、

ご託宣に従い、両神社が馬加(幕張)の磯辺にて、祭事を執り行ったところ、

翌日の午前4時ごろに無事男児が誕生したと伝えられています。

康胤公は大いに喜び、神徳に報いようと、馬加本郷の磯辺にて安産御礼の祭事を盛大に

行うようになったのが、この「磯出大祭(1445年)」の始まりです。

 その後、馬加氏の滅亡と領民の移住で、子守神社も凋落し、祭事も執り行っていませんでしたが、

慶長年間(1596〜1614)になり、天下安穏・領民の繁栄を祈願する磯出の神事が、再び行われるようになり、

江戸期享保年間(1700年初め〜中ごろ)には、大祭の先例に倣い、現在の形になったと伝えられています。

現在この「7年祭り」に参加する神社は、幕張「子守神社」、船橋三山「二宮神社」のほか7社で、

それぞれに母神社・父神社・産婆神社などの役割をもっているそうです。

 磯出の祭式は、”磯”であったところに現在国道14号線が通っていますので、

元”磯”のあたりである「幕張町一丁目公園用地」内で執り行われます。二宮神社での参拝を済ませた

4社のおみこしが、夜半より次々に式場入りし、未明(早朝4時ごろ)に1時間ほどの神事を行い、

6年後の再会を約束し、それぞれの地元に分かれていくそうです。

この行事は、秘儀と称されていますように、幻想的で、「一生に一度は見るもの」と言われています。

国道14号線沿い「磯出式」会場
 11月22日深夜から翌23日の未明にかけての「磯出式」は、

一般の参加は不可らしいですが、会場公園のお隣が、

国道14号線沿い幕張町1丁目付近のマクドナルド店ですから、

店舗2階からはバッチリ見えるのではないかと、思います。

普段何も無い公園内に、右写真のような竹を組んだ囲いが

できていました。(祭事役員さんのお顔がはっきり写ってはいけないと

思い、暗く分かりづらい写真ですみません)

* 2009年11月23日、この度の7年祭りは、無事執り行われました *
   現在は竹囲いもなく、いつもの公園になっております。